Q. 愛着とは何ですか?A. 愛着の説明の仕方は人により少しずつ異なりますが、ここでは私の理解でお伝えさせて頂きます。
愛着とは、乳幼児期に主な養育者との間で結ばれる、心の繋がりのことです。まだ言葉を話せない乳児の時から、子どもは泣いて「お腹が空いたよー」「眠いよー」など欲求を表現します。その時に、養育者が「どうしたの、お腹が空いたのかな、眠いのかな」とかけつけ、欲求を理解し満たし、子どもと養育者が共に安心していく、それを繰り返していくことで、子どもは養育者を自分の気持ちを受け止めてくれる安心な存在として認識し、養育者と心で繋がります。その心の繋がりを愛着とよびます。Q. 愛着が今の生き辛さにどう影響するのですか?A. 人は乳幼児期に、養育者に受け止められ大切にされる経験を重ねることで、「自分は大切にされる存在なんだ」「自分の気持ちは大切なものなんだ」という確信を形成していきます。これが、その後の人生の安心感の土台となる、とても大切なものです。この安心感の土台をしっかり育めると、世界は基本的に信頼できるものとして認識され、安心して自分を主張して生きていくことが出来ます。一方で、幼少期に養育者に理解され、気持ちが通じ大切にしてもらった経験が、全くない、あるいは乏しければ、世界から自分は歓迎されていない、自分は大切にされない存在なのだということを学び、世界が大変怖く、生き辛いものになることがあります。Q. 愛着障害とは何ですか?A. 精神科医の高橋和巳氏は、愛着障害を「養育者との間に愛着関係が成立しなかったこと」としています。高橋氏によるとこれは、単に親が分かってくれなかった、意見が合わなかった、愛情が不足していた、ということではなく、親が、子どもの気持ちを理解する能力がもともと「なかった」ことを意味しています。
これは、通常はなかなか理解できないことです。なぜなら、親に子どもの気持ちを理解する能力が「もともとない」ということは、あまり起こりえないからです。例えば子どもが目の前でお友達におもちゃを取られ悲しそうにしていたら、親も、庇うか見守るか叱るかに関わらず、「悲しんでいるな」と気付くことはできます。子どもが転んで怪我をすれば、親は、ケアするか叱るかに関わらず、「痛そうだな」と感じることは出来ます。気持ちを理解する能力が「ない」とは、子どもが悲しいだろう、痛いだろうことに、そもそも気付かないことを指します。
このように親の側に気持ちを理解する能力がもともと「ない」場合、子供は世の中を信頼できない、人との繋がりが持てず、信頼関係が怖い状態となります。ここでは、その心の在り方を愛着障害としています。Q. 心理的ネグレクトとは何ですか?A. 心理的ネグレクトとは、「見えない虐待」と言われます。養育者から、衣食住という身の回りのケアは与えられても、心理的なケアが与えられない状態のことです。私は、養育者自身が子どものことを見てあげられていないことに気が付いており、しかし自分の問題で精一杯で子どもと向き合う時間が取れない、と気にしている場合は、心理的ネグレクトにはならないと理解しています。心理的ネグレクトは、養育者自身が、子どもに興味がないことを気にしていない状態を指すと理解しています。例えば、子どもが親の前で転んで怪我をした時、通常親は、子どもに駆け寄って心配したり、気を付けて歩きなさい、と叱ったりします。あるいは、注意して見ていなかった自分を反省するかも知れません。とにかく、子どもが転んで、痛い思いをしただろう、という共感が生じます。共感が生じた後どのように反応するかは、親によってそれぞれです。心理的ネグレクトをする親は、子どもが転んで怪我をした事実は目に入りますが、痛かっただろう、という共感が生じません。ですから、見ているだけになったり、軽く笑っておしまいにしたり、全く別のことを考えていたり、ということになります。高橋氏によると、この心理的ネグレクトがある場合、子どもは、自分という存在を受け止められていないので、自分がいるのかいないのか、何を感じているのか分からないまま生きていくことになります。つまり、自分の欲求が分からないまま、「仕事をしなければならない」「ごはんを食べなければならない」「子供の世話をしなければならない」と、義務感だけで生きていくことになるので、人生が大変しんどいものになります。Q. セッションはどういうものですか?A. 私が現在学びを深めているAEDP(加速化体験力動療法)では、様々な心理的苦しみは、圧倒的な感情にたった一人で晒され、耐えきれない時に、その感情に蓋をして抑え込んだり感じないようにするところから生じる、と考えられています。例えば、幼い時に、家庭や学校などで理不尽な環境に晒されるなどして、本当は強い孤独感や恐怖、怒りを感じていたとします。しかし、その環境から逃れることは出来ず、何とか適応しなければならないとします。そうした場合、本当は感じているはずの孤独感や恐怖や怒りは、「こんなこと大したことない」と認識することで抑え込まれたり、意識に上らないようにされることで、人は環境に適応できます。これは生きるための合理的なやり方です。しかしこのやり方は代償があります。抑え込んだままの感情は時が過ぎてもそのままなので、大人になり、その環境から抜けることが出来ても、幼い頃に蓋をした感情が出てきそうな場面に遭遇した時に、また抑え込まなければならないのです。そうすると、その場面を考えるだけで不安になったり、過度に緊張したり、避けたり思考に頼りすぎたりと色々な症状が出てくるようになり、多大なエネルギーが必要になってしまいます。セッションでは、様々なお悩みから、そこにどのような感情があるのかご一緒に探索していくことを大切にしています。感情は頭ではなく身体が記憶しているので、セッションでは、身体感覚に注目することもよくあります。Q. 蓋をしていた感情を見ることに、どのような意味があるのですか。A. AEDPでは、感情は「変容を引き起こす媒体」と考えられています。感情は本来、それが喜びでも、怒りでも悲しみでも恐怖でも、人間の進化に必要だったもので、人生を豊かにしてくれるものです。例えば、怒りや恐怖は本来闘争や逃走の反応を引き起こし、危険を乗り越えることに役立ってくれるものです。悲しみは過去を終わらせるために必要で、寂しさは人との関係を作るために必要です。これらどのような感情でも、自然に生じる感情に悪いものはありません。苦しいのは、感情を抑え込んでしまうことです。感情について明らかになっていることは、人が心から感じている真の感情は、始まりがあってピークがあり、そして必ず終わりがあるものだということです。セッションでは、抑え込んでいた感情を二人で共有しながら感じ、感情を終わらせていくことを大切にしています。そうすることで、苦しい症状は軽減し、「これが自分だ」という自分に対する確信感や自信が芽生えたり、新しい適応的行動が見つかったりします。お一人では辛すぎて見られない心の部分を見ていくために、このセッションの場はあります。